ブログのスタイルを変えてみることにした。ふと、突然、朝の電車に揺れながらそう思ったのだ。吊革につかまりながらぼんやりと、ずっとブログを更新していないことに思いを巡らせて、唐突にそう決断した。何か物事を決めるときはだいたいそんなものだ。

タイトルを書かないことにしよう。

ブログと言ったものの、この場所は一応「はてなダイアリー」というサービス名ではないか。日記ではないか。ならばその名の通り日記としてこの場を使えば良い。何も無理に主張のある記事を書こうと悩む必要はない。不必要に読者の目を気にする必要はない。想定する読者は未来の自分と設定しよう。お前は何かを書きたいのか、何を書きたいのだ、何故書きたいのだ、などと自問してみるに、今現在のその答えはどうやら主義主張を世界に訴えて評価を得たいとかそういうことではなく、むしろ時間が経ったときに読み返してみて、ああ、あの頃はこんなことを考えていたんだなあなどと思い返したいとか、ウジウジと考え悩んでいることを書き連ねてみて胸の内を吐き出してみれば何かスッキリすることもあるかもしれないとか、そういった動機のほうが強いようなのだ。

ならばタイトルは必要あるまい。

タイトルというものは、たかがタイトルでありながら、意外に重荷であるように思う。タイトルを付けよと言われると途端に、まとまった内容の主義主張を込めなくてはならないという気になってくる。メールを書くとき案外一番面倒なのはタイトルだったりする。Twitter が流行している理由も本質は140文字の制限ではなく案外タイトルがないことじゃなかろうか。


それにしても口内炎が痛い。10日ほど前に唇を噛んでしまい、ここ2〜3日で急速に立派なクレーターに成長し滲みること甚だしい。リステリンが効くと聞いて以来、口内炎が出来ると必ずリステリンでうがいをするようにしている。そのリステリンがまた堪らなく滲みるのだが、それが余計に何か効いているのではないか錯覚させるものがあり、快感になりつつある。


今日は Kindle寺田寅彦のエッセイをひとつ読んだ。「漫画と科学」というエッセイである。以前「科学者とあたま」というエッセイに感銘を受けて以来、苗字が自分と同じよしみもあって他のエッセイも読んでみたいと思っていた。青空文庫で大量に公開されていることに気づき早速 Kindle に入れたという経緯だ。

科学と漫画には似ているところがある、という意外で面白い論旨であった。漫画は、例えば人物の顔の特徴を分解し、その一部を誇張して描くことで、写実からは遠ざかっているにも関わらずむしろ特徴を捉え真実を映し出す効果を持つ。同様に科学も、例えば放物運動では空気抵抗など興味の対象ではないものの効果を除去してシンプルな方程式として取り出すことにより、現実からは遠ざかっているにも関わらず返って真実に近づくことに成功している、というわけだ。


今日は少し書きすぎた。こんなペースではまた日記が続かなくなってしまう。明日はもっと短く気楽に書こう。

WPF/MVVM の勉強を始めてみた

これはいいものだ。

食わず嫌いだったと反省。もっと早くからちゃんと勉強するべきだったな、これは。一周遅れでようやくWPFの良さに気づきつつあります。

正直言ってあまりGUIに興味がなかったので、「ボタンを斜めに傾けてもしょうがないと思うしなー、別にアニメーションとか興味ないしなー、WPFはいいやー」と思ってた。

それがふとしたきっかけで尾上さんという方のブログ アプリ開発に必須なプログラム言語は!? – JavaやObjective-Cなど聞くけど、何が必須なの!? に載っているスライドを読んでみたら俄然興味が出てきて、今少しずつデータバインディングとかを実験してみているところ。GUIの見た目を派手にすることには全く興味がないんだけど、WPFの本質ってそこ(だけ)じゃなかったんだね。オブジェクト指向設計とか関心の分離とかMVCパターンとかを踏まえた延長線上でちゃんと新しいGUIのプログラミングモデルを提案しているものなんだね。そういうことを恥ずかしながらようやく理解した。

MVVM というのは Model-View-ViewModel の略で、MVCパターンの延長上にあるデザインパターンだ。といっても、MVC パターンというのは3つの概念に役割を分担するといい感じですよという程度の抽象的なパターンであるのに対して、MVVM パターンはもっと具体的な実装イメージがあるもので WPFアーキテクチャと深く結びついている。今のところの僕の印象としては、ViewModel が MVC の Controller に相当するというよりは、View が視覚ビューと論理ビューの2つに分離されたパターンという風に捉えている。

実は同僚にMVVMに挑戦している人がいて、「なんか隣で面白そうなことやってるなー」と思ったのが勉強を始めたキッカケの一つ。その彼と雑談したのだけれど、なんだか自分たち自身のGUIのデザインが従来と変わりそうだ、という予感がある。ただ上記で分かる通り僕の知識は全然MVVMを語れるようなレベルには達していないので頓珍漢なこと書いてるかもしれないけど・・・。

MVVMだと従来(WinFormsとか)は簡単だったものが面倒になり、従来は難しかったものが簡単になる、と感じた。そういう予感がある。

従来はコントロールをダイナミックに変化させるのは面倒だった。一方でダイアログを出すのはとても簡単で、ボタンのClickイベントでShowDialog()するだけだ。そのためダイアログを多用するGUIになりがちだったと思う。

ところがMVVM(データバインディングとかデータテンプレートとか)で作る場合はコントロールをダイナミックに変化させることが容易になりそう。というか「ダイナミックに変化させる」という言い回しが適切じゃない感じ。ViewModel の状態変化に追従するようにデータバインディング等を設定すると自然とそうなる、という感じ。直接コントロールを変化させているという自覚が薄れる感じ。(合ってるかなー。まだ自信がない・・・)

対してダイアログを表示するのはやや微妙な感じが漂うようになったと思う。もちろん従来通りボタンのClickイベントでShowDialog()は可能なんだけど、イベントハンドラはコードビハインドに定義されてしまう。究極のMVVMはコードビハインドを無くすことであるので、妥協の産物であるように思えてやや気持ち悪さが残る。妥協を嫌って完全にコードビハインドを消し去ろうとすると、今度は Livet や Prism のような外部のライブラリを導入する必要が生じてしまう。これらのライブラリを用いるとどうやら、ダイアログ起動イベント(メッセージ)を Messenger に仲介してもらって間接的にダイアログを起動するというアプローチで V と VM の完全分離を実現する、みたい(← ここまだよく分かってない)。なんにせよ、ちょっと大掛かりだ。

結果として、MVVM を採用すると GUI デザインからダイアログが減って、一つのウィンドウ上でコントロールがヌルヌルと動く GUI になりがちなんじゃないか、と予想してる。これは従来のウィンドウズアプリケーションよりも最近のウェブアプリのUIに似ている気がする。つまりこういうUIのほうがモダンなUIなんだろうな。

そろそろページランクみたいな方法で情報の信頼性を点数化できないのかねぇ

もう既にとっくに多くの人が考えてそうだけど。うん、絶対研究されてると思うな、間違いない。


ページランクというのはウェブページの重要度を決定するためのアルゴリズムだよね。その重要度とは何かというのが問題なんだけど、これは信頼度とは全く無関係なわけだ。直交する概念。

つまり、デマサイトでも色んなところからリンクされていればページランクは上がっちゃう仕組みだと理解してる。

はてなブックマークホッテントリもそう。たくさんブクマを集めたページが上に来る。否定的なコメントしか並んでいなくてもブクマ数が多ければ上に来る。

結果として、なんと残念な状況。炎上マーケティングが横行し、ホッテントリは釣りタイトルで溢れ、デマがリツイートされまくり、既存メディアは信用ならんなどと言われたところでじゃあ一体何を信じたらいいのさって状況。Wisdom of Crowds ってなんだっけ。


ページランクに立ち戻ってみよう。

ページランクの発想は学術論文の引用に基づいているとのこと。多くの論文から引用されている論文は重要な論文だと考えられる。また重要な論文から引用されている論文もまた重要な論文だと考えられる。この考え方をウェブに応用して各ページに点数をつけたらどうか。これがページランクの発想のようだ。

同じ発想で信頼度も評価できないのかな。多くのページから信頼されているページは信頼性が高いと評価できる。また信頼性が高いページが信頼しているページもまた、信頼性が高いと考えられる。この考え方でウェブ上の情報を信頼性の観点で点数化できないのだろうか、と思う。

この方式だと、信頼性が低いページ(または人)が何を書いたところで、相手先の信頼性に与える影響は小さい。逆に信頼性が高いページが相手に与える影響は大きい。信頼性が高いページによって不信感を表明されたページは、その信頼性が著しく下がる仕組みになる。


もちろん問題はある。

まず技術的な問題。この方法で評価するには、とあるリンクが相手先を信頼したポジティブな評価に基づくリンクなのか、それとも相手先を糾弾するようなネガティブな評価に基づくリンクなのかを峻別する必要がある。その峻別のためにはどんな文脈でリンクされたものなのかを自動判別しなくてはならず、高度な自然言語処理が必要とされてしまう。

もっと重大なのは政治的、社会的な問題だろう。今でこそ Google の検索システムは当然のものとして受け入れられるようになってしまったが、当初は私企業によるアルゴリズムでページの重要度がランク付けされてしまうということに多くの人が抵抗感を抱いた。Google八分という問題も発生した。ましてやページの信頼性をアルゴリズムで評価するとなると、重要度の評価以上に社会的な反発があるかもしれない。


こう考えてはどうかな。

信頼性の評価は、一種のキュレーションなのだ。Google検索エンジンに信頼性評価が載るべきだとは思わない。むしろ Google とは別であるべきで、ウェブページの信頼性を評価するサービスが複数存在してユーザーが自由に選べるのが望ましい。格付け会社と似ているかもしれない。これなら社会的な反発は避けられるかも。

こういったサービスを利用して、例えばYahoo!ニュースから信頼性の低いニュースはフィルタリングして受け取る、とか出来るようになったらいいなあと思う。これが実現すれば、ウェブの広告主は出来るだけ信頼性の高いサイトに自社の広告を載せたいと思うようになるだろう。そうなれば PV アップだけを狙った釣りタイトルの浅い記事は減少するかもしれない。きちんと足を使って取材したニュースが高く評価されるようになるかもしれない。

ウェブサービスのことは素人でよく分からないが、こういった信頼性の評価サービスが今後のウェブにおけるエコシステムの動向を握っているような気がする。

そのソフトの廉価版が出ない理由

ときどき人からこんなことを言われる。
「〇〇ってソフト、欲しいんだけど高いんだよね〜。もっと機能は絞ってもいいからさ〜、お宅で安いの作ってよ〜。」
こんなとき私の受け答えはいつも歯切れが悪い。
「え、あ、うーん・・・貴重な意見ありがとうございます・・・」
〇〇に入るのは3DCGとか3DCAD関係のソフトで、大抵はン百万というお値段のもの。


こう言われることもある。
「〇〇ってソフト、高いんだよね〜。もっと機能を絞った廉価版を出してくれればいいのにねぇ?」
やっぱり私の受け答えは歯切れが悪い。
「え、ええまあ、そうですね・・・」


廉価版はね、たぶん出ないと思うのですよ。残念ながら。


ソフトウェアというのは、コピーにかかるコストはゼロ。つまり製造コストはゼロ。
当然ですね。
つまり当然ながら、機能を削ったところで製造コストは変わらない。
しかしこの当然のことが、一般的な直観とはズレるところがあるのだろう。


「こんな機能は要らないからさ〜、もっと安くしてよ」直観的にそう思うのだろう。気持ちは分かる。
でもその機能は、誰かが必要としているから付いているのである。きっとその誰かが営業マンにこう言ったのだ。
「この機能さえ付けばウチは買うよ」
そして、開発会社ではきっとこんな会議が行われたのだ。
「この機能の開発コストは幾らで、この機能追加によって増加が見込めるユーザー数はどのくらいだ?」
つまり機能追加に見合うマーケットの増大が見込めるならば、機能は追加される。


ということは、だ。
その機能追加のコストを負担しているのは新規ユーザーだ。
既存のユーザーはその機能追加のコストは何も負担していないのだ。
もちろんこれは目論見通りに新規ユーザーが獲得できれば、の話だが。


仮に私が自社で〇〇ソフトの廉価版を開発すると想定してみよう。「不要な」機能を仕様から削ることで開発コストを抑え、〇〇ソフトと渡り合うことは果たして可能なのだろうか。
うーん、無理、と言わざるを得ない。
その「不要な」機能は誰かにとっては必要なものだ。つまりその機能を削ればその分だけ市場は小さくなる。だから仮にビジネスが最大限にうまく進んで守備範囲の市場では完全に〇〇ソフトを駆逐したとしても、機能削減によって小さくなった市場までしか支配できない。つまりソフトの価格は結局もとのソフトと同程度の価格にならざるを得ないだろう。
もちろん私や開発チームが圧倒的に天才で、圧倒的に低コストで開発ができてしまうのなら話は別だけどね・・・もちろん私がそんな天才であるはずもなく、むしろ海外の開発者のほうが天才的な奴がいそうだ。や、これは単にイメージでビビってるだけかもしれないが・・・。


では今度は、〇〇ソフトの開発会社が機能ダウンした廉価版をリリースすると想定してみよう。
その廉価版は自社の既存市場を確実に、喰う。
問題はそれ以上に新市場が開けるかどうか。価格を抑えることで、既存市場が喰われる分以上に新しい市場が広がるのかどうか。
・・・3D関係のソフトウェアの市場では、ちょっと考えにくいと思う。


ならばどんなストーリーなら考えられるだろうか。
例えば、キネクトだ。XBOX用のモーションキャプチャだが、USBでPCに接続すれば Windows でも利用できる。通常のモーションキャプチャと比較したら破壊的に安い。
もちろんプロの現場では今まで通りプロ用のモーションキャプチャが使われ続けるだろうと思う。
でもキネクトのあの安さは、モーションキャプチャとは縁もゆかりもなかった人たちにリーチする可能性を秘めている。全く新しい市場が拓ける可能性がある。こういった破壊的なデバイスに応じて破壊的な価格のソフトウェアを開発するのは面白そうだ。イノベータのジレンマを突くことが出来るかもしれない。
(・・・などと考えているけど今のところキネクトを利用したプロダクトの良いアイデアが思いつかない(涙))


まあ要するに、新しいソフトというのはなんらかの新しい評価軸を提案するものじゃないとダメなのでしょう。ソフトを作るというのは市場を作るということ。ソフトの数だけ市場があるということ。極論を言えば。
悩みは尽きない・・・、ホントに。

コクリコ坂から【ネタバレ注意】

ブログって放置してる期間が長くなるとどんどん書きにくくなるね。気負って久々のポストにふさわしい内容にしようなんて考えだすと永遠に再開できなくなりそうなので、お気楽な内容で。

というわけで、表題の映画観てきたので感想をメモっときますです。

なんか割と好評な様子だったので久しぶりにジブリ映画を観に行ってみようなどと思い立ったわけです。ゴローさん汚名返上なんてコメントも幾つか見たのでそれなりに期待して。

でも・・・、自分としてはイマイチな感じだった。

音楽は割といい感じだったと思うし、ストーリーも綺麗にまとまっていたんだけど、でもそれだけ、という印象だった。どうも感情移入ができないというか、冷めて見てしまうというか・・・。(主人公のお父さんの名前が僕と同じだったので居心地が悪かったのも一つの原因かも(苦笑))

この映画は昭和を舞台にしていて、その昭和はことさらに美化して描写された昭和であって、しかもその中で進むストーリーは学校の古い建物を保存しようという運動であって、その上主人公の少女は炊事や家事に勤しむ実に実に昭和的な少女であって、おいおいそんなに昔が好きかよ昭和が好きなのかよと。

しかも保存運動の解決方法が理事長に直談判で終わり。えー・・・っていう感じ。

なんかこう、魅力ある敵キャラがいないんだよね。例えばさ、理事長とか校長のキャラをもっと出してさ、最後まで対決姿勢にしてさ、学生たちは建物に立てこもってブルドーザーやショベルカーを引き連れた理事長と対決!みたいなドタバタ劇にしちゃえば、もっと躍動感のある(昔の)ジブリらしいアニメーションもあり得たんじゃないかなあ、なんて。描かれている時代ってたぶん、ちょうど高度成長期に差し掛かったあたりなんじゃないかと思う。それくらいのドタバタがあってもいいエネルギッシュな時代だったんじゃないのかなあ、知らないけど。

いやいや、これからのジブリが描きたいのはそういうドタバタ劇じゃないのかもしれない。でもそれならもうちょっと大人な感じにして欲しかった。例えば舞台は高校じゃなくて大学にして。建物を取り壊したい学校側の事情も描いて。高度成長期の経済的な要請と、古いものにも価値を見出して守りたい学生側とのイデオロギーの対立みたいな構図にして。ああ、どちらの言い分も分かるなあ、みたいなストーリーに仕立ててれば面白そうな気がする。

それがさー、建物を掃除して理事長を招待して、「理事長歓迎」みたいな横断幕でご機嫌とって建物の保存を勝ちとって終わりって、そりゃないよ。学生が背伸びして大人にたてついて青臭い言葉を吐いて、そのゴールが大人の承認を得ることでいいの?今の時代に伝えたいメッセージはこれなの?

んー、もっと単純にラブストーリーとして楽しめば良かったのかな。単に主人公たちの恋愛をキュンキュンして観てれば良かったのかな。それとも僕の見方が単に浅くて、もっと深い意図やテーマがあったのかな。

Make it happen ではなく Let it happen

とある本で Let it happen という興味深い言葉に出会ったので久しぶりにブログを更新してみる。その本は繰り返し "Let it happen" と言う。つまり起こるままに任せよという。疑心に駆られて強引に Make it happen しようとするな、という。
なんと、テニスの本である。

新インナーゲーム (インナーシリーズ)

新インナーゲーム (インナーシリーズ)

おっと、「俺テニス興味ねーし」とページを閉じようとしているそこのアナタ、もうちょっと待って欲しい。なんだかこの本は不思議な本なのである。テニスの本なのに、まるでテニスのことではないようなことが書かれている。
この本は「道」のようであり、人生論のようであり、マネジメントにも応用できそうであり、子育ての参考にもなりそうである。その象徴と感じたのが冒頭の "Let it happen" という言葉である。

タイトルについて

まず本書のサブタイトル「心で勝つ!集中の科学」について一つ言いたい。敢えて言おうカスであると。センスのない余計なサブタイトルで誤解をまねくこと著しい。この本は心で勝つためも本でもないし、集中の科学でもない。というか、「心で勝つ」とか「集中の科学」とか意味分からんだいたい科学とはどういうことだ編集者ちょっと出てこい一体本書のどこに科学が書かれているのかと小一時間(ry
次に、タイトルの「インナーゲーム」について。直訳すれば内側のゲーム、内なるゲームである。いわゆる普通のテニスの試合がアウターゲームであるのに対して、プレーヤーの内側で行われている葛藤がインナーゲームである。このインナーゲームをうまくやることがテニス上達のキーであると著者は言う。
こう書くとサブタイトルの「心で勝つ!」はあながち間違いではないと思われそうなので補足しておこう。まずインナー(内側)とは心だけを指すのではなく、身体も含まれている。次に、本書はむしろ心を引っ込めて身体を信頼しなさいと述べており、つまり心で勝とうとするなと言っているのである。さらには、本書後半で語られる著者の人生観からは必ずしも勝つことだけがテニスの目的ではないという価値観が伝わってくる。

セルフ1とセルフ2

「私」とは何だろうか。自我や意識が「私」なのだろうか。あるいは肉体が「私」なのだろうか。
本書では「私」をセルフ1とセルフ2という二つの「私」に分解している。セルフ1は自我であり、セルフ2は体を含めた自我以外の部分を指す。セルフ1は大脳新皮質でセルフ2はそれ以外と言ってもいいかもしれない。このセルフ1とセルフ2の葛藤がインナーゲームである。
実は僕は数年前に趣味でテニスを始めたのだけれど、ゲームになると途端に調子が出なくなるタイプで困ったのが本書を購入した動機だ。いわゆる典型的な本番に弱いタイプでまことに自分が情けない。ゲームになると途端にイージーストロークショットにも失敗し、ボールをラケットの芯で捉えられなくなる。練習通りに打てない自分に苛立ち、次こそは力んで返って体が硬くなってしまい、考えれば考えるほどショットの調子がおかしくなる。そしてフラストレーションを抱えたままコートを去るのだ。
そう、まさに僕はインナーゲームに負けていたのであった。ショットを失敗するたびにセルフ1が苛立つ。苛立ったセルフ1はセルフ2を疑い、叱りつけ、コントロールしようとする。そのセルフ1の苛立ちがますますセルフ2を硬直させることになり、さらにショットは崩れていく。
本書は言う。セルフ1は静かにせよ。セルフ2を信頼せよ。セルフ1でラケットを振るな、セルフ2が自然に振るのに任せよ。Make it happen しようとするな、Let it happen で良い。
何だか弓道の言葉のようだと思った。昔「矢は放つのではありません、自然に放たれるのを待つのです」みたいな言葉を聞いたことがあったからだ。その時はわけ分からんと思っていたが、本書を読んで腑に落ちた感じがする。こういう日本的な(と思っていた)精神性をまさか欧米人の著した本から学ぶことになるとは思いもよらなかった。

応用(?)

勝手に応用していいのか、その判断は読者に任せる。ただ、本書の主張はつい無関係の分野にも応用して考えてみたくなる魅力に満ちている。
例えばプロジェクトマネジメント。セルフ1をマネージャのリーダーシップ、セルフ2をチームメンバーに置き換えて本書の主張を読み返してみよう。つまりこうなる:マネージャは静かにせよ、チームメンバーを信頼せよ。リーダーシップでプロジェクトを進めようとするな、チームが自然と動くに任せよ。Make it happen しようとするな、Let it happen で良い。
子育てはどうだろう。セルフ1を親、セルフ2を子供に置き換えてみると次のようになる。親は静かに見守れ、わが子を信頼せよ。親が強引にしつけようとするな、子が自然と育つに任せよ。Make it happen しようとするな、Let it happen で良い。
Let it happen とは、決して無関心に放任することではない。英語は得意ではないが、僕が Let という単語から感じるニュアンスは放任とも無関心とも違う。多大な関心を寄せつつ、手出しをせずに外から見守るようなニュアンスを感じる。これが「信頼する」ということではないだろうか。


自身を振り返ってみて、反省するところは多い。僕はいつも Make it happen しようとして、ぶつかり、苛立つことが多かった。過去を悔い、未来を憂えて、「今ここ」に集中することが下手だった。すべてを自分でコントロールしようとし、コントロールしきれない自分に苛立った。逆にコントロール出来たときはすべてが自分の手柄であるかのように天狗になり、自我を肥大化させてきた。
もちろん、本を読んだくらいで簡単に Let it happen は出来ないだろう。これからも僕の自我はトラブルを起こし続けるだろう。それでも幾許かのヒントを本書からもらったような気がしている。しばらくは "Let it happen" が僕のテーマになりそうだ。

ゲリラ戦をやろう

以前どなたかのブログで紹介されていたこの本、個人的に大当たり。実に面白く読めた。

マーケティング戦争 全米No.1マーケターが教える、勝つための4つの戦術

マーケティング戦争 全米No.1マーケターが教える、勝つための4つの戦術

マーケティングを戦争になぞらえる、というのはそれ程斬新なアイディアとは思えなかった。しかし、僕が思わず引き込まれたのは次の一文だった。

マーケティングの戦場は心の中にある。

マーケティング戦争は見込み客の頭の中で行われるのだ。消費者の頭に陣取り、敵の陣地を脅かし、生き抜くのだ。戦場は決して、市場のシェアを示した円グラフではない。
ということは、見方を変えれば僕の頭を戦場にして色んな企業が戦いを繰り広げているといえる。例えばdocomosoftbankは僕の頭の中でどんなポジションをとっているのだろうか。例えばハイボールは、どんな戦術で誰の陣地を脅かしたのだろうか。コンビニで何気なく手に取ったペットボトル飲料は、僕の心どんな場所を占めていたのだろうか。そんなことを考え始めると面白い。
余談だけど、以前聞いた話。ある加工機器の営業がものづくり系の中小企業に売り込みをかけていた。その時、相手の社長が天秤に掛けていたのはライバル企業の加工機ではなかったという。なんと、ベンツだったそうである。面白いもので加工機とベンツも同じ財布を奪い合えば競合関係になるのだ。このとき社長の頭の中ではどんなせめぎ合いがあったのであろうか。(残念ながら僕は、この社長は結局どちらを買ったのか、事の顛末を知らない。)


もう一つ印象的だった一文を紹介しよう。

戦略は戦術に即しているべきである。

注意して読んで欲しい。戦術は戦略に即しているべきとは書かれていない。戦略が戦術に即するべきと書かれている。
この本はマーケティングの本なので、戦術というのは広告を指している。具体的な広告のやり方を知らぬものは優れたマーケティング戦略を生み出すことは出来ない、と本書は述べている。
僕はもちろん広告のやり方なんて全く知らないので、本書の意見の真偽を判断するような知識も経験もない。しかし強引にソフトウェア開発に我田引水して考えれば、「設計(=戦略)はプログラミング技法(=戦術)に即しているべきである」ということであろう。これは僕の経験に照らして十分に得心が行く意見である。実装技術に長けた者でなければ良い設計は出来ないのだ。
「なるほど〜」と感心している僕に追い打ちをかけるように次の一文が登場する。

戦略は月並みな戦術を許容する。

一瞬、先程の一文と矛盾してるじゃないかと思った。しかし良く考えればこの二つは矛盾しない。何故なら「設計は実装技術に即しているべきである」と「設計は月並みな実装を許容する」は矛盾しないからだ。


本書に拠れば、僕が採るべき戦略は間違いなく「ゲリラ戦」である。ゲリラ戦の目的は、敵陣に攻めこんで相手を叩き潰すことではない。市場の隙間に身の丈に合った居場所を見つけ、そこに攻め込む者がいればこれを撃退し自分の陣を守り切ることである。言ってみれば、生き延びれば勝ちということである。
「もし自分の業界に Google が参入してきたらどうしよう?」と思ったことはないだろうか。圧倒的な巨人が参入してきたら自社のような弱小企業はあっという間に吹き飛んでしまうのではないか、と不安を覚えたことはないだろうか。日本経済の先行きに関する識者(?)の意見を目にするたびに、グローバル経済とやらの波に飲み込まれて日本丸は沈没する運命かと恐怖したことはないだろうか。
本書が解説する「ゲリラ戦」は、そんな不安に対して「大丈夫、生き延びる道はある」と語りかけているように感じられた。ゲリラ戦の極意とは戦いを自分に有利な局地戦に持ち込むことであり、グローバル経済などといっても結局必要なのは新しいローカリティの発見なのだと思う。地理的な制約とは違った切り口でのローカリティを発見し、そこに自分の陣を張ることが必要なのだろう。
さあ、ゲリラ戦をやろう!