劇場型裁判と裁判員制度と弁護士の行方と

以下、素人意見も甚だしい雑感になる。

光市母子殺害事件で死刑判決が出た。僕にはこの判決が妥当なのか判断する能力はないし、そんなおっかないことをウェブに書くつもりもない。また、何かと物議を醸した弁護団であるが、それに対する善悪の判断も僕には出来ない。

ただ、ふと思ったのは、例えば弁護団の中にマスコミとか広告代理店とかマーケティングのような人種が含まれていたら、裁判の行方はどうであっただろうか、ということだ。

事実としてこの裁判があらゆる意味で世間の耳目を集めたわけで、やっぱり裁判官も人間であるからして、畢竟「世論」のようなものが判決に影響したのではないか、などと想像している。そして、この弁護団の言動は、僕には善悪の判断はつかないけれども、少なくとも世論を味方につけることは失敗した。彼らの戦略だか戦術だかは失敗したのだ。

弁護団は、六法全書は読めても、世間の空気は読めなかったのかもしれない。

一方、例えばマスコミや広告代理店、マーケティングといった業界業種に携わっている人というのは、いわば世間の空気を読むプロと言えるのではないか。もしこういった職種の人、あるいはそれに近い能力やメンタリティを持っている人が弁護団の中にいたならば、それでも同じ戦術を採っただろうか。彼らは自分たちの発言や主張が世間にどのように受け止められるか、という点についてもっと敏感なのではないだろうか。そして、もっと言葉巧みに人心を掴む弁舌を駆使し、世論を味方につけたのではないか。その場合、判決結果にも何らかの影響があったのではないか。

つまり、事実上、既に裁判員制度は始まっているのかもしれない。

「世間」という名の裁判員を味方につけるかどうかで、判決に影響を及ぼすのかもしれないのだ。

であるならば、「優秀な弁護士」の「優秀」の評価軸も大きく変わることになる。裁判に勝てる弁護士が優秀な弁護士とするならば、勝つためには六法全書よりも世間の空気を読むことが重要になるのだ。あるいは、巧みな言論で人心を掴む弁護士が優秀という評価基準になるのだ。そうなれば、以前は優秀であった弁護士が並み以下に転落することもあるだろうし、落ちこぼれ弁護士が評価を上げることもあるかもしれない。

そして今、新しい司法試験によって合格率が上がり、裁判員制度が始まろうとしている。上述の傾向は今後も続くのではないだろうか。法曹界にいる方々はこの辺りどのように考えているのだろう。

まあ、そうはいっても、特に民事裁判においては優秀な弁護士とは裁判に勝つ弁護士ではなく、裁判に持ち込む以前にうまく示談にまとめて丸くおさめる弁護士であるわけで、昔から弁護士には人心掌握の能力も必要だということかもしれないけれど。