巧みに生きるか、「それでもボクはやってない」か

満員電車に乗るのが怖くなったよ。
映画「それでもボクはやってない」

普通、有罪にするためには「やった」という証拠が必要。「疑わしきは罰せず」が鉄則だ。でも痴漢なんてなかなか証拠が出せるはずもない。でも痴漢は社会問題だ。痴漢は罰せねばならない。撲滅せねばならない。そんなわけでいつの間にか、逆に被疑者側が「やってない」という証拠を出さないと無罪にならないという状況になってしまったんだと思う。でも「やってない」証拠のほうがもっと難しいよね。「ある」証明よりも「ない」証明のほうがずっと難しい。

自分が被疑者になったらどうするだろうか。さっさと認めて、出してもらうだろうか。それとも誇りを持って無罪を主張するだろうか。そんなことをつらつらと考えていて、なぜか思い出したのは「巧みに生きる」か「善く生きる」かの議論。

充実した人生を送るためには、まず、生きるということに関して「技術的に巧み」でなければならない。生きること自体の技術的難易度がものすごく上がってしまっている。そうすると、そのことが自己目的化して、「より巧みに」という競争が生じるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20070121/1169370542

若い人たちを見ていて僕はいつも、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う。気がついたら放り込まれていたこの世の中で「サバイブすること」こそがとりあえず最初に大切で、「善く生きる」のはサバイブしてかなり余裕が出てからでいい、と僕はあえて言い切ってしまおうといつも思っている。そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う。

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070121/p1

巧みに生きる弁護士と、善く生きようとする弁護士。
巧みに生きる裁判官と、善く生きようとする裁判官。
映画を見ると、巧みに生きるものに怒りを覚え、善く生きようとする者を応援したくなる。でも、巧みに生きる彼らをそう安易には責められない。彼らも彼らなりに必死でサバイブしているだけ。あと、一度巧みに生きた人間がそう簡単に善く生きる方向に転換できるものだろうか、とも思う。

とにかく、この映画は勉強になった。「日本の裁判制度」という僕個人の力ではどうにもならない国家権力の中で、僕はいかにサバイブするか、という意味において。(← 結論は出てないけど、考えるための参考にはなった)
ハッキリ言って、ちっとも面白い映画ではない。
でも、オススメなのだ。男性にも女性にも。