モノづくりかコトづくりか

これはなかなか難しいというか、興味深いというか。

「コップをなぜコップと呼ぶのか。それはコップという設計情報の名前が人工物にとって本質的だから。素材がガラスでも、紙でも、プラスチックでも、すべてコップと呼ばれる。ガラスのコップを見て『ガラスだ』と思う人はいないだろう。しかし、くぼみのある石を持ってきてこれで水を飲めといわれたら、その石をコップとは呼ばないだろう。それはただの石である。つまり、設計者の意図を感じるから、それをコップだと呼ぶ。コップとは設計情報の名前であり、モノの本質的な部分は設計情報なのだ」。

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ガラスのコップを見て「グラスだ」と思う人はいるんじゃないか、などとくだらないことも考えましたがそれはさておき。
コレに対して福耳さんが次のように「反論」している。

たとえ自然と窪んだ石であっても、その凹みに液体を溜められる機能を意識化してからは、それはもちろん素材としては石のままですが、認識としてはコップになるのではない?

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20071123/1195807627

無謀にも、この話題にプログラマの視点から参戦してみようぢゃないか。
プログラミングの世界には「ダック・タイピング(duck typing)」という言葉がありまして。

"If it walks like a duck and quacks like a duck, it must be a duck"
(もしもそれがアヒルのように歩き、アヒルのように鳴くのなら、それはアヒルである)

ダック・タイピング - Wikipedia

これを「窪んだ自然石」に応用すると

もしもそれがコップのように水を蓄え、コップのように使えるのなら、それはコップである。

福耳氏の考え方は実にダック・タイピング的だ!


更に「オブジェクト指向的に」考察していこう。オブジェクト指向パラダイムにおいては「オブジェクト」を「インターフェイス」と「実装」に分けて捉えるのだ。ここでは「コップ」というオブジェクトをインターフェイスと実装に分けて考えれば良い。

コップのインターフェイスとは次のようなものになるだろう。

  • 液体を注ぐことが出来る
  • 片手で掴める程度の大きさであり、片手で軽く持ち上げられる程度の重さである
  • 注いだ液体を飲むことが出来る

インターフェイス」には実体はない。インターフェイスとはコンセプトであり、情報であり、実体ではない。
では実体を持った「目で見て、手で触れる」コップは何か?それがコップの「実装」なのだ。ガラスで「実装」されたもの、プラスチックで「実装」されたもの、いずれもコップである。いかなる実装であろうとも、コップというインターフェイスをサポートしていれば、それはコップなのである。それがコップのように水を蓄え、コップのように使えるのなら、それはコップなのだ。


冒頭の藤本先生と福耳氏の議論に戻ろう。僕が思うに、藤本先生はデザインの対象(意図を込める対象)を「実装」に限定していて、一方福耳氏はデザインの対象をインターフェイスまで遡って捉えようとしているのだ。
僕は(狭義の)モノづくりとは「実装」だと思うから、そういう意味では藤本先生の捉え方が正しいんだと思う。ただ、これからの商品開発論を考えるにあたって「モノ」「実装」だけで良いのだろうか、という疑問は感じる。だって、そのスキームでは所与のインターフェイスに対してどのようにモノを実装するか、という議論しか出来ないじゃないか。
やっぱりこれからの商品開発とは、インターフェイスのデザインを含むものでなくっちゃいけない。ではインターフェイスをデザインするってどういうことか。それは「コトづくり」だと思う。
インターフェイスとはその名の通り「境界」「界面」であり、モノとヒトの境界であり、オブジェクトとサブジェクトの境界である。それはつまり、モノとヒトの間にどんなコトを起こすか、である。例えばコップのインターフェイスのデザインを考えるなら、それはコップというモノのデザインを超えて、コップとヒトとの間に起こる something good をデザインしなくてはならない。
「モノづくり」から「コトづくり」へ。


そういえば、モノづくりの代表格である自動車メーカーが、こんなCMをやっていたな。
「モノより、思い出」。