「沈まぬ太陽」がワカンナイ

今日は日航機墜落事故から22年。その今日、沈まぬ太陽の最終巻を読み終えた。

沈まぬ太陽〈5〉会長室篇(下) (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈5〉会長室篇(下) (新潮文庫)

相当な取材を基に書かれた作品のようだ。下記のWikipediaに登場人物と実在モデルの対比も載っている。

国民航空社員(モデルは日本航空)で同社の労働組合委員長を務めた主人公、恩地元(実在の日本航空元社員・小倉寛太郎がモデル)が受けた不条理な内情を描き、人間の真実を描いた作品。ナショナルフラッグキャリアの腐敗と、単独機の事故として史上最悪の死者を出した日航機墜落事故を主題に、人の生命に直結する航空会社の社会倫理を鋭く抉り出した作品である。

沈まぬ太陽 - Wikipedia

心打たれる作品であっただけに、何か感想を書き残しておこうと思ったのだが、筆が進まない。事故の悲惨さを訴えてみようにも、腐敗した社会を嘆いてみようにも、書けないのだ。悩むうちに思い出したのは、井上陽水の「ワカンナイ」だった。

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
(引用)

【散文(批評随筆小説等)】井上陽水から見た賢治—宮沢賢治メモ2

結局僕には、沈まぬ太陽はワカンナイままだったのだろう。
大変な取材を基に書かれたというだけあって、筆致にリアリティがある。ならば、読み出したら止まらず一気に最終巻、といきそうなものだが、どういうわけか僕は一気に読めなかった。あまりの人間腐敗に食傷気味になったことも理由の一つだが、もうひとつの理由は、カッコイイ正義漢のはずの主人公(恩地元)にどうも感情移入し切れなかったことだ。要するに、恩地元がワカンナイのだ。

梅田望夫氏が昨日のブログで養老孟司氏を引用して次のように書いている。

この世間で好きな仕事をしようと思ったら、必要なことはするしかないが、義理は欠くしかないということである。・・・

・・・
13年前、僕が日本を離れてシリコンバレーに移住した理由の一つに「日本に住んでいると、義理を果たすためだけに、自分の大切な時間が無制限に失われていく」と強い危機感を抱いたから、というのがあった。さまざまなしがらみの中で増えていく「義理の連鎖」に莫大な時間を割きながら、自分がやりたいことを実現するための「体力」が、僕には決定的に不足していると思ったのだ。

取り返しはつかない - My Life Between Silicon Valley and Japan

このエントリが多くのブックマークを集めているのは、「義理なんてワカンナイ」という感覚が現代人の共感を得たということだろう。僕もそういう感覚を持つ一人だ。
一方、沈まぬ太陽の恩地元は、この「義理」に生きた典型ではないか。カラチ、テヘラン、ナイロビと僻地をたらい回しにされる報復人事にも、日本に残った組合員との「義理」を感じ、その任を全うすることで節を通した。その生き方は一世代前の人にとってはとてもカッコいい生き方なのだろうと想像するのだが、それが僕にはもうワカンナイのである。「そんな会社、さっさと辞めちゃえばいいじゃん」とツッコミそうになる。アカ、労使闘争、団交、といった言葉一つ一つが遠く、現実感がない。ただただ親の世代が生きた時代の空気を一生懸命想像してみるしかない。


かつて燃え上がったと聞く労使闘争の結果は、労働者が勝つでもなく、使用者が勝つでもなく、ただ新しい世代のワカンナイという感覚によって掻き消されていくのだろうか。問題に結論は付かず、ただ新しい別の問題によって塗り替えられていくのが時代の流れというものなのかもしれない。そしていずれは、今の自分の信念も新しい世代からワカンナイと言われる日が来るのだろう。なんだか切ないものだ。
そう、僕には恩地元の信念はワカンナイ。でも、何らかの信念をもって生きる、ということにはワカルと言えるようにありたい、と思った。