「安心」と「信頼」

これ、たぶんとても有名な本だと思う。前から気になっていたのだけれど、最近になってようやく読んだ。

期待以上に面白かった。衝撃的といってもいいくらいに。
色々と感想を抱いたので、ここに記しておこうと思う。
(えっと、テキトーに書き綴るからあまり信用しないように。正確な内容が知りたい人はちゃんとこの本を買って読んでね。)

日本人は集団主義的か

筆者は調査で次のようなアンケートを実施したという。下記の二つの質問に、こころの中で答えてみて欲しい。

Q1 : 日本人は欧米人と比べて集団主義的な考え方をしていると思いますか?
Q2 : あなたは集団主義的な考え方をしていますか?それとも他の日本人と比べて個人主義的な考え方をしていますか?

この結果が面白い。多くの日本人が、「日本人は集団主義的だが自分は違う」と答えたのだ。
ということはもしかして、多くの日本人はこう思っているんじゃないだろうか。

日本人はどいつもこいつも社畜ばかりだがオレは違うぜ!

ネットを見ているとこう思っている人はとても多いのだろうなと思う。つまり、他人からは社畜と思われているような人だって実は「自分は社畜みたいな集団主義者になるつもりはない」と思っているわけだ。
にも関わらず、社会全体が新しい働き方に移行するのはとても難しい。そこにはきっと社会的なジレンマがある。

赤信号、みんなで渡れば怖くない

現行の慣習とは異なった労働観に基づいて行動するというのは、いわば「赤信号」なのだ。

一人で赤信号を渡ろうというヤツはあまりいない。しかし、4人、5人と渡るヤツが出てくると、とたんに追随して渡りだす人が雪崩式に増えていく。

つまり、赤信号を渡る人がある臨界量を超えた途端に、相転移が一気に進んでみんな信号を無視するようになるのだ。

社会も同じだ。社会の行動基準みたいなものは、何かが臨界量を超えた途端に一気に別の状態に相転移するのだと思う。逆に言えば、変化が臨界量に達しない限り相転移も発生しない。そこに社会を変えることの難しさがある。

Social change starts with YOU!

これはXPで有名な Kent Beck 氏の言葉。社会の相転移のくだりを読みながらこの言葉を思い出した。
有効なアジりだと思う。
誰もが心の中では変わりたいと思っている。だけど社会的ジレンマがあり簡単には変われないと思っている。みんなが変わるなら僕も追随しよう、とみんなが思っている。
そういう状況下では、「あなたが起点となって変わるんですよ!」とアジることは相転移を促す効果がきっとあるだろうと思う。ただしもちろん、そのアジテーションの効果が臨界点を超えなければ、気運はしぼんでしまって元の状態に戻ってしまうのだけれど。

安心社会と信頼社会

本書では2種類の社会を対比させている。それが「安心社会」と「信頼社会」だ。
本書によれば、日本は安心社会であり欧米は信頼社会である。そしてグローバル化などの影響から多くの人が、日本も信頼社会へ移行するべきだと考えている。しかしそこには社会的ジレンマがあり、思うように移行出来ていない。
まさに相転移が必要なのだ。徐々に移行することは出来ない。安心社会と信頼社会の中間の社会というのは存在しないのである。ここに難しさがあり、筆者も日本の将来を心配している書き方であった。

安心社会とは何か

江戸時代の農村社会が安心社会の代表例。村人たちは共同作業に積極的で、お互いに警戒心も持っていない。牧歌的で、とてもよい社会に思える。
しかし、実は村人たちは互いを信頼しているわけではないらしい。「安心」しているだけで、「信頼」はしていないのである。
狭く閉鎖的な社会では悪さができない。共同体を裏切るような行為をすれば、その見返りは自分に返ってきてしまう。最後には村八分が待っている。それは怖い。だから悪さができない。みんなも同じはずだ。みんな見返りが怖くて悪さなんてしないはずだ。だから「安心」できる。それが安心社会。

信頼社会とは何か

一方、信頼社会とは都会のような開放的な社会である。そういう社会では、異なるコミュニティに属する人とのコミュニケーションが必要になる。コミュニティが異なるのだから「安心」は得られない。「安心」なき社会においてコミュニケーションを支えるのは「信頼」である。相手が信頼に足る人物かどうかを自らの責任で見定めながらコミュニケーションをとる。それが信頼社会だ。

「安心しきってるでしょ?(怒」

これは昔、とある友人が当時の彼女にフラれたときに言われたセリフである。蓋し名言といわざるを得ない。
思うに、安心するのは心地よいことだが逆に安心されるのは不快なのだ。
対して、信頼するのはリスクを伴うが信頼されるのは誇らしいものである。
友人はおそらく、その女性を信頼していたのではなく安心してしまったのかもしれない。女性はそれを敏感に感じ取り怒りを覚えたのだろう。もちろん二人の関係がどうであったか僕には知る由もないが。とにかく、ただ安心されるというのはかように不快であるということだ。
「信頼できる人物になれ」といわれる。が、もしかして本音は「安心できる人物になれ」と言っているのではないか、と邪推したくなることがある。
上司が「信頼しているよ」という。もしかして本音は「安心しているよ」ではないかと邪推したくなることがある。
果たして自分は、部下を信頼しているのか安心しているだけなのか、などと思い返す。
「安心するな、信頼しよう。」自戒を込めて、そう思う。

安心社会=株の持ち合い?

なんとかホールディングス、という会社名をよく目にする。日本では株の持合いが多いという話を聞いたことがある。巨大な企業グループを形成している様子もよく見聞する。これってまさに企業が安心社会を形成している例じゃないのか、などと思った。
農村社会の村民たちは、互いに株を持ち合っているようなものなのかもしれない。あるいはナントカ村ホールディングスの傘下に属しているようなものなのだ。仮に異分子が生じたとしても多数決の圧力によって異分子は排除されてしまう。

ネット社会は?

本書にはネットオークションの例が書かれていた。ネットオークションでは見ず知らずの人物と取引をしなくてはならない。当然ながら「安心」できない。しかし出品者の過去の取引実績やその評価を見ることで、その人物が信頼できるかどうか判断基準を得ることは可能だ。出品者側もせっかく積み上げてきた自らの信頼度を落としたくはないので、誠実な取引を行おうとする。これによってしっかりとした信頼社会が成立するのである。
mixiはどうだろうか。mixiはちょっとムラ社会っぽい部分がある気がする。
はてなは、はてな村などと揶揄されているものの、それほどムラ社会っぽさはない感じ。
ではツイッターはどうだろうか。
ネット社会では、匿名の人もバックグラウンドが不明な人も溢れかえっている。このような社会では「安心」はどうやっても得られない。アカウントIDに積み上げられた実績を元に「信頼」してコミュニケーションを成立させるほかない。ネットでは、「信頼」のスキルを獲得せざるを得ない。
これから日本にも、ネット社会で「信頼」のスキルを得た人がどんどん増えてくるだろうと思う。そういう人たちが日本全体を信頼社会に変えていく原動力になるのかもなー、と期待している。