「社畜」という言葉が嫌い
ざらつくような、いやな響きを持った言葉だと思う。
この手の言葉は、独り歩きする。思考停止の道具になる。
「あの人は社畜だから」
その一言で済ませて、特定の人を馬鹿にするようになる。レッテルを貼って、思考停止に陥る。
理解はできる。
たぶんこの言葉を使う人は、例えば長時間労働などに苦しんでいる人、あるいはその経験がある人ではないか。仕事からのプレッシャーに苦しみ、抜け出したいともがいている人ではないか。
そんなとき、周囲の人間がみんな敵に見える。自分だけ早く帰宅すると、全員から白い目で見られているような感覚に陥る。
そんなプレッシャーから精神を守るために、半ば反射的にレッテルを貼る。
「あいつらは社畜だから」
僕自身、そういう思考に陥った経験がある。
その点、たしかに長時間労働は悪である。
僕の経験では、仕事の疲れというのは労働時間に比例しない。全くもって、比例ではない。
適度な量の仕事はやりがいが感じられて、むしろ活力になる。しかし、労働時間がどこか分岐点を越えた辺りから、急に疲れを感じるようになる。
疲れと共に、仕事に対して投げやりな気持ちになってくる。次々と仕事を持ち込む上司が腹立たしくなってくる。周囲の人間がだんだん敵に見えてくる。
こうなったら、注意信号だ。
こういう負の感情というのは、下手をするとポジティブフィードバックがかかってしまう。負の感情が自分の中でどんどん膨れ上がって抑えきれなくなってしまう。
たった一時間でいい。早く帰るべきだ。
経営者、マネージャの立場であれば、メンバーが一時間早く帰れるように仕事を減らすべきだ。
所詮、進捗は一時間分の仕事量しか変わらない。
その一時間で、仕事に対する負の感情が嘘のように解消する可能性だってあると思う。
気持ちにゆとりが出れば、実は「社畜」なんていないことに気づく。
ある人は、やっぱり自分と同じように苦しんでいる人かもしれない。
ある人は、プロフェッショナルとしてのプライドを持って顧客に応えようと頑張っているのかもしれない。
「社畜」という言葉は、その強烈な響きゆえにここまで広まり、一つの問題提起になった。そういう意味では、一定の役割を果たしたのかもしれない。
しかし、「社畜」という言葉は問題を解決しないだろう。人を揶揄する言葉を使っているうちは、問題が解決することはないと思うのである。