「日本」から受け取るメッセージ

かのポール・グレアムの有名なエッセーで「都市と野心」というのがある。

大都市は野心家を引き付ける。大都市を歩くだけで、それを感じることができる。不特定多数の複雑かつ巧妙な方法で、都市は人にメッセージを送る。「もっとできる、もっとがんばれ」、と。

驚くことに、都市によってメッセージはぜんぜん違う。ニューヨークのメッセージは「とにかくもっとお金を稼げ」だ。もちろんニューヨークは「もっとカッコよくなれ」というメッセージも発している。でもいちばん明確なメッセージは「もっと金持ちになれ」だ。

私がボストン(いや、むしろケンブリッジ)を好きなのは、そこでのメッセージは次のようなものだからだ。「もっと賢くなれ。本当に自分が読みたい本を読みあさるべきだ」。

http://d.hatena.ne.jp/lionfan/20080531#1212252948

人々が住んでいる都市からメッセージを受け取る、というのはとても面白い着想だ。この着想を支持するならば、人々は住んでいる国家からもメッセージを受け取っている、と考えるのが自然だと思う。ニューヨークがメッセージを発する以前に、アメリカという国家もメッセージを発していると考えるべきであるし、僕たち日本人は気付かないうちに日本という国家からメッセージを浴びながら生活しているのだと思う。

では日本という国は、僕たちにどんなメッセージを送っているんだろうか。

たぶんそれは、「完璧であれ」だ。

この国は「完璧であること」で成功してきた国なんじゃないかと思う。工場から欠陥品をなくし、完璧な品質を実現し、よどみないサービスを完璧な笑顔でこなしてきた。完璧であることがこの国の誇りだったし、これからもより完璧になることで勝ち抜いていこうという価値観を暗黙のうちに共有しているようにも思える。

しかし、この国の発する「完璧であれ」というメッセージが、徐々にこの国自身を壊し始めているような気がしてならない。

この国に住んでいると、すべてを完璧にやりこなさないと人間としても欠陥品扱いされてしまうような強迫観念を感じることがないだろうか。費用対効果を度外視した「完璧さ」を要求されていると感じることはないだろうか。今やっていることをより速くより正確に、より完璧にすることばかりが求められると感じることはないだろうか。

たぶん、これからの時代は、「完璧であれ」というメッセージからはイノベーションは起こらない。そんな予感を抱き始めた頃から、僕の中の価値観が徐々に変わってきたことを感じている。

より業務を完璧にするためのIT投資は、つまらないなと思うようになった。

バグのないプログラムの書き方、みたいな記事はちょっと飽きてきてしまった。

お客さんから要求仕様を引き出すという姿勢よりも、むしろこちらから発想のネタを提供して一緒に仕様を作っていきたい、と考えるようになった。

小さなことだけれど、僕にとってはちょっとした挑戦の連続だ。そして、そういう小さなことの積み重ねが、メッセージとして誰かに届くのならばそれはとても嬉しい。そういう動きが大きくなれば、日本という国家が発するメッセージも徐々に変わっていくのだと思う。

もう、変化は始まっている。

アキハバラが発するメッセージは世界的に見ても特殊だ。インターネットが発するメッセージもある。インターネットの中でも、「2ちゃんねる」と「はてな」では発しているメッセージが違うように思う。いずれにしてもそれらは、「完璧であれ」というメッセージとは大きく異なっているはずだ。


今、自動車業界を代表として、随分な不況に陥っているようだ。もちろん不況はハッピーなことじゃないのだけれど、敢えてこれをチャンスと捉えてみようじゃないか。

「完璧であれ」というメッセージの発信元はやっぱり、自動車業界に代表される製造業だと思う。そのメッセージの屋台骨が大きくぐらついたということは、この国が発するメッセージを変えていくチャンスでもあるはずだ。「完璧じゃなくてもいいから何かチャレンジを!」という絶好の機会であるはずだ。

来年がそういう年になるといいな、と思う。・・・鬼が笑うかもしれないけれど。