毎日新聞とゲリラ戦

普通の大企業は、そういうリスクとこれまでも常に対峙してきた。メディア企業も、ついに普通の企業と同じ立場に立たされてしまった、ということだけだ。
・・・
既存のメディアの権益に対し、それをチェック・アンド・バランスできる、別の新しいメディアが誕生した、ということに過ぎないのである。

取材するほうから取材されるほうへ−メディア・リスクとのつきあい - michikaifu’s diary

とても面白く読んだ。だけれど、「・・・ということに過ぎないのである」というほど簡単かなー、という疑問も湧いた。

実は、この一連の事件を眺めながら僕は「ゲリラ戦」や「ベトナム戦争」というキーワードを連想していたので、ちょっとググってみた。

ゲリラ…遊撃戦,または遊撃隊.一般住民の支持を背景として,小部隊が奇襲,待ち伏せ,夜襲などの変則的な戦闘形式で敵を攻撃,その戦闘能力,戦意を低下させる戦法。またそのための小武装集団。(「ベトナム戦争とゲリラ」より)

http://dolphin.c.u-tokyo.ac.jp/~suzuki8/viet/guerilla.html

うーむ、まさにこれは「ねらー」の戦い。

ところが、ゲリラ戦に「前線」はない。ゲリラがどこから現れるか、どんな手段で攻撃するかはランダムだ。ゲリラは、できるだけ自分の所在、攻撃計画がばれないように準備し、自分に有利な時機、有利な場所で戦闘を開始する。だから、相対的に少ない人数で大きな打撃を与えることができる。
ベトナム戦争の場合は「ゲリラ」と呼ばれるが、「テロ」と呼ばれる行為もそれに類似している。ゲリラとテロの区別が曖昧なケースもしばしば見られる。)

http://dolphin.c.u-tokyo.ac.jp/~suzuki8/viet/guerilla.html

まさしく、ねらーの戦法に「前線」はない。

従来の「メディアとの付き合い」というのは、必ず「前線」が存在するものではなかったか。敵の布陣が見え、敵味方の境界線が見え、兵力も把握でき、場合によっては取引も駆引きもある戦いではなかったか。政治的にうまく動けば、同盟も休戦協定も結びうるものではなかったか。

しかし、ゲリラとの戦いはそうは行かない。敵が右にいるのか左にいるのか、皆目見当がつかない。ジャングルの奥地でゲリラを相手に「お前ら卑怯だぞ!姿を現して堂々と戦え!」と叫んだところで、それは虚しいだけでなく滑稽ですらある。苛立つ毎日新聞の姿には、そんな滑稽さと悲しさがある。

今、アメリカが「テロとの戦い」をやっている。ベトナム戦争同様、ゲリラ的なテロ攻撃に苦しんでいるように見える。日本に住んでいるとテロは遠い地の出来事と感じられるが、ネット上でのテロはまさに今ここ日本で起こっているようにも思える。電凸テロ、とでも言えばいいだろうか。

このテロとの戦いは、「メディア企業も、ついに普通の企業と同じ立場に立たされてしまった、ということだけ」というほど簡単ではないような気がするのだけれど、どうなんだろう。