人はノードか、エッジか

人間関係のネットワークというと、こういう図が浮かぶ。これはヒトをノードと捉えたグラフだ。mixi的世界観ですな。

だけど、見方を変えれば、次の図のような捉え方も出来るのではないか。

これは、ヒトをエッジと捉えたグラフだ。ヒトが価値と価値を結ぶ役割を果たしている。
あなたはどちらの図が好きですか?


僕は、2番目の図の捉え方のほうが好きだ。
正確に言えば、この2つの図は相補的なものであって、どちらが正しくてどちらが間違っているというわけではない。だけど、普通「人間関係のネットワーク」と聞いて思い浮かべるのは最初の図だと思うし、それに対して2番目の図は最初の図からは得られない視点を与えてくれる感じがする。

見方によっては、2番目の図は人が歯車に見えるかもしれない。つまり、例えば会社という組織の中で、ヒトは単に仕事と仕事を繋ぐだけの線に過ぎないように見えるという人もいるかもしれない。だけど、こう考えて欲しい。まず、この図はスタティックな構造ではない。時々刻々とダイナミックにグラフは変化していく。そして、「線」として表現されているヒトはちゃんと自由意志を持っていて、自らの意思で「自分は何と何を結ぶべきか」を考え、変化していく。そういう図だと思って欲しい。

パッと見では、最初の図のほうが「個の時代」を象徴しているように感じられる。ヒトという「個」が有機的にネットワークを構成し、そこに何か大きな価値があるように感じられるからだ。一方2番目の図は、上述したようにヒトが組織の中に組み込まれているように見えて、時代に逆行しているように感じられるかもしれない。だけど、これは僕の主観に過ぎないけれど、最初の図に囚われている人のほうが個を発揮できないで苦しんでいるような気がする。逆に、2番目の図のような価値観で、「自分は何と何を結ぶ役割なのか」を考えている人のほうが、より上手に個を発揮できているように思えるのだ。

つまり、「個の時代」こそ2番目の図で考えるべきなんじゃないか。


最近、ネットでよく「没落エリート」とか「学歴」とか目にする(http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666)。この「エリート」「学歴」というのは権威的な何かによるヒトの重み付けだ。一時代前の価値観というのは、そうやって権威付けされたヒトが集まってネットワークを構成すれば何か価値が生み出せる、というものだろう。まさに最初の図のが表している価値観だ。まずヒトのネットワークがあり、価値がそこに従属する。

しかし、権威というものの力が徐々に弱まってきている、らしい。そうであるならば、権威によるヒトの重み付けも小さくなり、フラットになっていくはずだ。それを個の時代、と呼ぶのだろう。そしてそのときこそ、逆にヒトが価値のネットワークに従属するという2番目の図の価値観に移っていくんじゃないだろうか。

つまり、僕たちは「自分は何と何を繋ぐのか」という役割を意識する必要があるのだと思うし、それがid:fromdusktildawn氏のいう「経営スキル」なのだと思う(経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ)。その価値観の変化についていかないと没落エリートになってしまうのかもしれないね。