コントロールか、サバイブか

読もうと思いつつ、なかなか読まずにいた一冊、年越し前に慌てて購入して年越し前になんとか読了した。

フラット革命

フラット革命

僕は今、コントロール V.S. サバイブ、という対立図式を頭に思い描いている。
これはこの本の直接の感想というわけではないのだけれど、本書を読みながらつらつらと考えるうちに、ふと頭に浮かんできた図式であり、案外これはネットをめぐる様々な対立の構造をよく反映している図式ではないか思っている。


たぶん、コントロール V.S. サバイブの図式自体は古くからある構造だ。
この対立図式は、老年と若者との対立図式に重なる。
いつの時代だって、若者はサバイブしなくちゃいけない。まだ30年以上を生き抜かなくてはならないのに、どうしようもなく自身には世の流れを変える力がなく、ただただ押し寄せる時代の波のなかをサバイブしなくてはならない。この世はコントロールするものではなくてサバイブするものなのだ。
一方、既に定年を迎えた世代、あるいは定年間際の世代というのは、もうサバイブを考える必要はない。いや、これは言い過ぎで、定年後の人生に心配の尽きない方も多いとは思うのだが、メディアなどを通じて意見が聞こえてくる老年の方々というのは殆ど、定年後の人生を心配する必要がない方ではないかと思う。そういう立場になると、これは想像に過ぎないのだけれど、おそらくは如何にして秩序の保たれた整然たる社会を作り上げるかという視点に興味が移るのではないだろうか。この視点に立つと、社会というのはコントロールの対象ということになる。


結果として、いつの時代だって若者は、自分たちをコントロールしようとする上の世代に憤るし、いつの時代だって老人は、自分たちのコントロールから外れようとする若者に苛立つのだろう。


そしてこの対立を、インターネットは間違いなく、加速させている。


例えば、社会がコントロールされるべきものであるならば、匿名掲示板は許されない。社会がサバイブするものであるならば、匿名が許されなくては困る。
これは、制限することでコントロールしようとする力と、自由であることでサバイブしようとする力の戦いなのだ。


インターネットでは、80%〜90%はノイズだ。
条件反射的・短絡的な書き込みや誹謗中傷で溢れている。あるいは、自分にとっては何の関心も興味もないコンテンツが溢れている。こういった「ノイズ」は華麗に「スルー」し、如何にして質の高いコンテンツだけを、自分にとって興味のあるコンテンツだけを拾い出すか、が重要になってくる。ノイズの海の中で、何が重要で何が意味のある情報かを判断するのは、個人の手に委ねられているのだ。
ノイズだらけのネットを彷徨っているうちに、ある種の諦観のようなものが芽生えてくる。この世はどうしようもなくノイズだらけで、どうしようもなく混沌としていて、コントロールなんて効かないものなのだ、という諦観だ。それと同時に、このどうしようもなく混沌とした世界が、清濁を飲み込んだこの上なくパワフルな世界にも思えてくる。この世界はどうしてなかなか面白いじゃないか、自分は何とかサバイブしてやろう、という勇ましい気分になってくるのだ。


これを書いていて、とある連想をしている。
ベルリンの壁の崩壊や、旧ソ連の崩壊によって、旧共産圏に資本主義経済の波が押し寄せた。そのとき、彼らは「選べる」ことに戸惑ったというエピソードを聞いたことがある。計画経済に沿って画一的な「商品」が生産されていた時代と違って、多種多様な商品が店頭に並ぶようになり、彼らは選ばざるを得なくなった。生活用品や衣類などを「選んで」買った経験がないために、いざ選べると言われても大いに戸惑ったというエピソードである。

特定の権威あるメディア(新聞やテレビ)のみから情報を得るというのは、いわば情報の計画経済ではないか。この「情報の計画経済」に慣れた人々は、急に「ネットでならば自由に情報が選べる」と言われても戸惑うばかりなのかもしれない。逆に詐欺のようなインチキ商品を掴まされるかもしれないという不安感のほうが先に立つのだろう。
インターネットの登場により、「情報の市場経済」が登場した。これは「検索エンジン」という市場で「リンク」という通貨が交わされる市場経済である。もちろん、市場経済とは混沌としたものだ。時には詐欺が横行し、時にはバブル経済が発生し、時には猛烈なインフレのような混乱が生じるかもしれない。それでも市場経済は計画経済を駆逐した。市場経済が本質的に内包する混沌さが、そのパワーの源泉なのだろう。


僕には、計画経済 V.S. 市場経済 という対立図式が コントロール V.S. サバイブ という対立図式に重なって見えるのだ。はてさて、2008年はどんな年になるのだろうか。ひるむことなくサバイブしていきたいと思う。