「ふつうにスゴイ」という感覚
東大生はスゴイ、と思いますか。
まあアレだ、あまり良い例ではないなとは思うが、かといって他に良い例も思いつかず、仕方なく東大生を例に挙げているのだけれど。
多分、東大生自身にはさほど「俺たちはスゴイ」という感覚はない。なぜなら、周りもみんな東大生なのだ、自身の知的レベルが「ふつう」の中で生活しているのだから、自分たちが格別に突出している存在だという感覚は、多分生じないだろうと思う。
しかし、世間は彼らを、突出した、格別な存在として扱う。「ふつう」ではない存在として扱う。そこでは東大生は「記号」なのだ、つまり、「突出した存在」を表す記号なのだ。それは、どこか手の届かない高みにある憧れの存在であり、やがては国家を動かすようになるであろう恐れるべき存在であり、何か事件を犯せば「バカと天才は紙一重か」とでも揶揄したくなるような存在である。
東大生と「世間」を分かつものは何か。
それは、東大生を「ふつう」と思えるかどうか、の一言に尽きるのかもしれない。
もちろん、東大生はスゴイ。難しい試験をくぐり抜けてきた知力あふれる人たちなのだから。でも、彼らは手の届かない高みにいる「記号」では決してない。かれらは「ふつうにスゴイ」のだ。誰にだって手が届く程度にスゴイのだ。しかし、多くの人が自分と東大生の間に自ら壁を作り、その自らの壁によって東大生を手の届かぬ存在にしてしまっているように思う。
オブジェクト倶楽部の講演において、平鍋さんが次のように言っていた。
曰く、もっと英語で情報を発信していくべきだ。海外からの情報をありがたく受け取るだけではダメで、こちらからも積極的に発信していかなくてはならない。彼らはもちろんスゴイのだけれど、なんていうかな、もっとこう「ふつうにスゴイ」感じなんだ。話してみれば彼らはとても人間味があって、気さくで、手の届かない孤高の存在というわけではないんだ。
先日の(少々感傷的な)エントリで、僕は次のように書いた。
・・・分からないことがあれば oosquare メーリングリストに質問を投げ、ごくたまに神のごとく尊敬していたスゴイ人から返信をもらうと、小躍りするような喜びと興奮を感じていた。
オブジェクト倶楽部クリスマスイベント2007 - カタチづくり
もうお分かりのように、この頃の僕は、oosquareの向こう側の人々を、どこか手の届かないスゴイ人だと思っていた。記号だったのかもしれない。憧れていたけれど、手が届くとは思っていなかった。
今となっては告白するのも恥ずかしいけれど、平鍋さんも、僕にとってはそういう存在だったのだと思う。
今はもう、平鍋さんとは直接お会いするようになり、気さくで人間味のある「ふつうにスゴイ人」として接するようになった。これはもちろん、僕の中で平鍋さんの地位が下がったというわけでは、断じてない。なんていうか、きちんと人物に「焦点が合った」感じ。自分の視野に、自分の被写界深度に、きちんと対象を捉えられた感覚。
この感覚を得て以来、僕は以前よりも自然体でいられるようになった気がしている。
多分平鍋さんは、Kent Beck や Poppendieck もこの感覚で捉えられるようになったのだ。自分の射程に捉えたという感覚を持ったのだ。きちんと生身の人間として像を結んでいる。それが「ふつうにスゴイ」という言葉に表れているのではないか。彼らはもちろんスゴイが、だからといって手が届かないところにいるわけじゃない、ふつうにスゴイんだ、という感覚。彼らを目前にして、自分も自然体で立っていられる、という感覚。
日本と海外のソフトウェア業界を分かつものは何か。それはもしかしたら、彼らを「ふつうにスゴイ」という感覚で捉えられるかどうか、だけなのかもしれない。多分平鍋さんは、そういうことを言っているんだと思う。