知識労働の時代と格差社会

恥ずかしながら、初めてドラッカーの著書を読んだ。

明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命

明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命

本書でも書かれているように、今まさに知識労働の時代へと突入していく転換期らしい。その時代にあっては、知識労働の「生産性」がカギを握っている。知識労働に対して「生産性」という表現を使うのが妥当なのかはよく分からないけど。

最近、はてな界隈では格差社会が話題になっていたけど、僕の予感では格差の原因と知識労働の時代は何か関係がある気がするんだよなぁ。派遣会社が悪いとか、自己責任だとか、格差なんて昔からあったとか、全部ピント外れな気がしてしまう。あまり自信はないけれど、以下に僕なりに考えた格差の原因を書いてみる。

知識労働の生産性がカギだ。では知識労働の生産性を上げるにはどうすればよいのだろう。肉体労働と知識労働は完全に異質なものだ。肉体労働の生産性と同様に考えることは絶対に出来ない。労働の所作を細かく分解してムダ取り、というアプローチでは生産性は向上しない。

本書に載っていた例を引用してみる。

これはある大病院で、看護婦たちに・・・仕事は何かとの問いに対する答えは、大きく二つに分かれた。・・・ところが、生産性を邪魔しているものについては全員の答えが一致した。書類書き、花生け、電話への対応など、彼女たちが雑用といっているものだった。
それらの雑用は、看護婦よりも給与の低い病棟事務員に任せることができた。そこでさっそく、そのようにしたところ、看護婦たちの生産性、すなわち本来の仕事に使える時間は倍になった。患者の満足度も倍以上になった。それまで絶望的に多かった中途退職が激減した。

要するに、「雑用」は給与の安いものに任せて、知識労働者は知識労働に専念するということだね。これをどんどん進めると、社会全体が知識労働に専念する層と雑用を任される層に分かれてしまうことになる。これが格差なんじゃなかろうか。

あるいは、格差は知識労働者の間でも生じうる。上記の例では、看護婦たちの生産性は倍に向上した。このように知識労働というのは簡単に生産性が2倍になったり半分になったりする。従って、知識労働者の間でも両者の生産性の違いによって給与に大きな格差が生じうる。

こうやって考えていくと、派遣が悪いとか個人の甘えだとか、あんまりにも浅薄な議論じゃないかと思うんだよね。


(追記)
看護婦の例は初歩的過ぎる気もするけど、本書が出版されたのは1999年。当時はまだその程度の効率化も目新しいものだったんだろうなぁ。最近はITによる知識労働の効率化も進んできているんだろうね。
知識というのは知識があるところに集まってくるものだと思うし、知識は集積度が上がるほど効率が上がるものだとも思う。だから、知識が集積する箇所としない箇所で格差が生まれてしまうんだと思う。