先行するのは「行動」であり、「意思」は幻想である

これは痺れた。この思想は応用が利きそうだと直観。

先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。

国語教育について - 内田樹の研究室

先行するのは「ソフトウェア」であり、「要件」は幻想である

「要件」がまずあって、それが「媒介」としての「プログラミング言語」に載せられる、というソフトウェア観が開発現場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
先行するのは「ソフトウェア」であり、「要件」というのは「ソフトウェア」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。
とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、ソフトウェア開発の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。
私が何かをプログラミングするとき、書き始められたセンテンスは前後の文脈や統辞上の制約や私の「書き癖」のせいで自動的に一文をなす。
そうやって自分が書いたプログラムを私はユーザーの立場になって操作してみる。
操作して「なるほど」と納得することもあるし、「何か違う」と思うときもある。
たいていは「何かが違う」と思う。あるいは「何かが足りない」とか「何かが過剰である」と思う。
私はその印象にしたがってプログラムを補綴し、あるいは削除し、あるいは加筆する。
そうやってあれこれいじりまわしているうちに「操作してそれほど違和感のない」プログラムが出来上がる。
このプログラムを「それほど違和感がない」と感じているもの、それが開発者主体である。
プログラムを書き終えたあとにはじめてそのプログラムを書いた人間の言語運用の「好み」がすこしだけわかる。

先行するのは「生き方」であり、「本当の自分」は幻想である

「本当の自分」がまずあって、それが「媒介」としての「生き方」に載せられる、という人生観が学校教育の場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
先行するのは「生き方」であり、「本当の自分」というのは「生き方」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。
とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。
私が何か人生上の行動を起こすとき、始められた一連の行動は前後の文脈や社会的制約や私の「癖」のせいで自動的に「生き方」をなす。
そうやって自分が起こした行動を私は思い返す。
思い返して「なるほど」と納得することもあるし、「何か違う」と思うときもある。
たいていは「何かが違う」と思う。あるいは「何かが足りない」とか「何かが過剰である」と思う。
私はその印象にしたがってその後の生き方を補綴し、あるいは削除し、あるいは加筆する。
そうやってあれこれいじりまわしているうちに「思い返してそれほど違和感のない」人生が出来上がる。
この人生を「それほど違和感がない」と感じているもの、それが人生の主体である。
人生を終えたあとにはじめてその人生を送った人間の「好み」がすこしだけわかる。

まあ、なんだ

ちょっと無理あるね(笑
とりあえず、元の内田樹氏の文章には痺れたので、ここに敬意を表します。