ラッキョウの皮をむいても本質は見つからない

猿にラッキョウを与えるとなくなるまで皮を剥き続ける、なんて聞いたことがある。ホントかね、コレ。
なぜ皮を剥くのか。皮の内側に実があると信じるからだ。でも、皮を剥くと、そこにはもう一枚の皮がある。
「上っ面だけを見るな。本質を探れ。」なんていう人がいる。ていうか、そう思ってた。だから、内側を探ろうとして、ひたすら皮を剥き続けた。ラッキョウの皮を剥く猿のようにね。
今はこう思っている。
「本質」などという「モノ」はない。あるとするならば、それはモノとモノの間にある「なにか」だ。絶対的な「本質」などという座標軸はないのだ。すべてはモノとモノの相対関係で決まる。相対関係にこそ、皮と皮の隙間にこそ、探るべき「なにか」がある。
そう、探るべきは隙間(=インターフェイス)だ。その探求を「デザイン」と言う。
僕とお客さんの隙間、経営者と従業員の隙間、要求と技術の隙間、理論と応用の隙間、そこにこそデザインすべきインターフェイスが潜んでいる。探り続けるべきフロンティアがある。
そうして、ラッキョウは丸ごとかじるのが正しい。
これがこの世の本質なのだよ、諸君。