先に蔓延したのはニセ科学ではなくてホンモノの科学のほうだ

幻惑の死と使途 (講談社文庫)

幻惑の死と使途 (講談社文庫)

日常が既にマジックなのだ。
誰もが、日常生活でマジックを体験し、マジックの中で生きている。いちいち「不思議だ」などと驚いている暇はない。本来、人類の特徴ともいえる、もっとも敏感だった感覚、不思議なことを発見し、それが不思議だと感知するセンサは、現代では無用となった。そればかりか、現代社会は、その感覚を完全に麻痺させようとしている。
身の回りは不思議なことに満ち溢れ、それらを鵜呑みにしないかぎり生きていけない。生まれたときから、そんな環境の中にいるのである。たとえ、不思議に思ったとしても、すべての仕組みは分解するには小さ過ぎ、理解するには複雑すぎる。周りの大人にきいても、誰も答えられないだろう。だから、現代の子供たちには、魔法と科学の区別などつけようがない。

そうか。先に蔓延したのはホンモノの科学のほうなんだ。
科学は、「不思議を解明したい」という欲求にドライブされ、「本当にそうだろうか?」という徹底的に疑う姿勢に鍛えられ、今日まで発展してきた。その科学自身が、不思議を不思議と感じる感覚を麻痺させ、疑う気持ちを萎えさせたんだ。科学こそが、ニセ科学を呼び込んだんだ。
皮肉なものだ。
ヒトは不思議が好きだ。だけど大抵の不思議は科学が解明してしまった。もちろん科学の最先端ではやっぱり大きな不思議がゴロゴロしているはずだけど、その不思議に到達できるのは限られた人だけになってしまった。だから大抵の不思議は「それは科学が解明している」と即答されてしまう。シラけることこの上ない。だから、ヒトは「科学では解明できないこと」を信じたいのだ。
ヒトは不思議が嫌いだ。説明できないことが嫌いだ。未来の予測がつかないことが嫌いだ。でもこの世には否応なく不思議に溢れている。だから何かを信じたい。昔は宗教だった。今は科学だ。
ヒトは科学に対して卑屈になっている。無闇に畏れたり、虚勢を張ったりする。そして、自分自身の身体感覚に自信を失っている。もっと自信を持って、堂々と科学に対峙することが出来たなら、ニセ科学の入り込む隙などないはずなのに。