マクロネット学とミクロネット学

昨日、田舎の母から封筒が届いた。なんと中身は「新潮」6月号の「ウェブ進化と人間の変容(梅田望夫氏と平野啓一郎氏の対談)」のコピーである。
参照: 「新潮」6月号: 平野啓一郎氏との対談 - My Life Between Silicon Valley and Japan

もともとウェブ進化論を母に薦めたのは僕だ。といっても、母はインターネットとは縁遠い普通のオバさんである。ピンとこないだろうなぁとタカをくくっていた。
ところがどっこい、案外「ピン」ときちゃったらしいのである。それ以来、新聞や雑誌で梅田氏の名前やGoogleという単語が載ると熱心に読んでいる。母の読解力にも感心したが、母にも感じ取れるようにインターネットやGoogleのすごさを伝えた梅田氏の文章力には脱帽だ。

※ ちなみに、母がピンと来たのは書かれている内容だけではなかったらしい。「梅田氏なかなかイイ男」とコメントが添えてあった。

噛み合わない論点

で、肝心の対談内容はなんだかスッキリしない。二人の論点が合ってない気がするのだ。まあ、対談というのはあまり論点が合ってしまっても面白くないかもしれない。論点のズレはどこにあるのか、を探すのが対談を楽しむ一つの方法でしょう。

そんな風に考えているうちに、表題の「マクロネット学」と「ミクロネット学」という言葉を思いついた。

平野氏はミクロな視点でネットを考えている。平野氏の考える「人間の変容」は個人の変容だ。各個人がネット世界に入り込むことによってどのように変容するか、を主題に考えているように感じた。この視点でネットを考えることを仮に「ミクロネット学」と名づけよう。
これに対して梅田氏はマクロな視点で考えている。梅田氏の考える「人間の変容」は社会の変容だ。インターネットの登場によって社会のあり方、あるいは人間社会の知のあり方がどのように変容するのか、を主題に考えている。この視点を「マクロネット学」と名づける。
どちらも興味深いテーマだと思うのだが、なかなかミクロネット学とマクロネット学は相容れないようだ。まず傾向としてミクロ派はネットを否定的に捉えやすく、逆にマクロ派はネットを肯定的に捉えるのではないか。また、ミクロ派はマクロな動きをミクロの集約として捉えようとし、逆にマクロ派はミクロの動きをマクロの断片として捉えようとする。この両派の「互いに思いが伝わらないもどかしさ」が対談から感じられるのである。

※ 僕はまだ6月号しか読んでないので、その点ご了承ください。

ミクロネット学 − 顔のない主体たち

平野 ・・・現実の世界の中で自己実現できていないとか、自分の言いたいことを自由に言えないとか、そういう不満を解消する目的のためにネットに別の人格を作り上げている人たちもいる。彼らには、リアルワールドとネットの世界という二分法があって、その境界線が主体の内側に内在化していて、前方に一つのリアルな世界が開かれ、後ろ側にもう一つの別の世界が開けている。その結節点に、主体が形成されているんじゃないかという印象なんです。

この辺りから、平野氏の興味は「個人という主体がネットの登場によってどのように変容するのか」というところに向いていることが分かる。そういった視点でネットを見たとき、ネットの匿名性というのは外すことの出来ない重要な要素である。名前も顔も見えない世界で人はどのような主体を形成するのか、を議論することになる。そして、人間の変容は次のような形で論じられる。
人間の変容 = �弽朕佑諒冤�
つまり、人間の変容を個人の変容の集約、あるいは積分値として論ずるのである。これは間違ったアプローチではないと思うけど、ネットへの不安や恐怖といったネガティブな感情を増幅させてしまう副作用を持つように感じる。しかも、ネットの可能性というのは個の積分値では捉えにくいもの(マクロに捉えて初めて見えてくるもの)だと思うので、ミクロ派のアプローチではネットの明るい未来がそぎ落とされてしまうのではないだろうか。

マクロネット学 − ニューラルネットワークとしてのインターネット

梅田氏は検索エンジンを次のように語っている。

梅田 世界の結び目を、自動生成する機械なんです。

これはもう、平野氏の視点とは全然違う。「世界の結び目」だなんて、ちょっとぶっとんだ話ではある。しかし、この「ぶっとんだ」視点こそマクロな視点であり、インターネットの可能性を考える上では欠かせない視点だと思う。
たとえば、社会全体(インターネット全体)を巨大な脳だと考えてみよう。つまり、主体は社会(インターネット)そのものであり、各個人はニューラルネットワークを構成するニューロンに過ぎないと捉えるのである。そう考えると、インターネットはニューロンの結びつき方や情報交換のスピードを画期的に変えたことがよく分かる。このことが「社会」という巨大な脳の思考回路にどんな影響を与えるのか。そこにインターネットの持つ巨大な可能性を見るのである。
このマクロな視点で「人間の変容」を考えると、ミクロ派の意見とは全く異なる可能性が見えてくる。梅田氏もこのマクロな視点で考えているからこそ、「ウェブ進化論」でオプティミストに徹することが出来たのではないか、と勝手に予想している。その反面、マクロな視点だけではミクロの動きが捉えられないだろう。匿名性とか、ブログの炎上とか、Google八分とか、そういった問題は「ノイズ」として無視されてしまう可能性がある。

両方必要だよね

陳腐な結論で恐縮だが、ミクロな視点もマクロな視点も両方必要だと思う。しかし、ネットの「あちら側」の人の意見はネットマクロ学に偏りがちであり、「こちら側」の意見はネットミクロ学に偏りがちなのではないだろうか。この両派の溝がますます広がっていくことがないように祈るばかりだ。